シリウス星☆出身?!ヴィーガン宇宙人のスピリチュアルブログ 

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こいつには気をつけろ!霊的エゴ その②

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前回の霊的エゴの話の続きです。

 

誰もがスピリチュアルな知識に触れてまだまもない頃は、特にこの霊的エゴがその人の心に近づいてきます。巧みに騙してうまく紛れ込んでくるので、自分の心を常に観察する視点を持って、付け入る隙を与えないようにすることが肝心です。

 

少しでも傲りや他者と自分とを隔てるような分離を感じたら、その能力や知識を一時的に手離すことも必要だと思います。
その時は、まだ自分が手にするには早かったのだと思い、日常の現実的なことを通して人間性を磨くことに精進する方が良い気がします。

 

実は、僕も霊的エゴに支配されそうになっていた時、ふとどこかの山に籠って修行するか、俗世を捨てて僧侶や修道士として生活をしようかという考えが過りました。

 

その当時、対人恐怖症で家に引きこもりがちだったので、そうやって世俗から離れようと考えたのだと思います。
でも、その時、自分の中の心の声が「また逃げるつもり?今までの転生でも同じような生き方ばっかりしてきたのに。」というのが聞こえました。

 

また、自分が得た霊的な知識を聞かれてもいないのに、身近にいる母や妹にひけらかすかのように話をしていました。なぜだかわかりませんが、勝手にそれが自分の役目、使命であるかのように錯覚していました。

 

やがて、そんな僕の日々の言動にうんざりした妹から、ある時こんなことを言われました。

 

「そういった知識は自分の人生で生かせばよいことであって、誰かに吹聴して回ることじゃない。何よりそういった話を求めていない人にすすめたり話すのは失礼だよ。
もし誰かに質問されたら、その時に初めて答えてあげたらいいんじゃない?
一人家に籠ってそういうことを探求するより、もっと自分とは違ういろんな世界の様々な価値観の人たちと沢山付き合っていくことで、その人間関係から磨かれたり学べることがきっとあると思うよ。」

 

(僕が言うのもなんですが、本当によくできた妹なんです。内面に仙人みたいなおじいちゃんがいる感じで、常にニュートラルでいてくれます。)


そう諭された時、急に我に返る思いがして、それまでの自分が、友達もおらず一人家に籠りがちで、自分の興味のある精神世界のことばかりを探求して頭でっかちになっていたこと、そして、自分は他者に何かを教えられる存在であるという過信や傲りを持ち始めていたことに気づかされました。

 

その妹の言葉がきっかけとなり、その後、普通に社会に出て多くの人たちと接する中で自分を磨こうという意識を持つようになりました。

 

今あれから10年以上が経ちましたが、その道を選択して良かったと心から思っています。

 

特に仕事を通じて出会うひとりひとりと丁寧に付き合っていくことで、あの頃とは比べものにならない程、友人、知人の数も増え交友関係が広がっていきました。その中で自然とコミュニケーション能力も磨かれ、被害妄想、対人恐怖症、鬱病のような症状も少しずつですが改善されていきました。

 

また普段の会話で自分が知っている霊的な知識や宇宙の話、哲学的な話は一切することはありませんでした。でも、日々の僕の生き方でそれを実践する姿を示すことができれば、その僕の姿を見て、時に真似したり、反面教師としたりして、他者の鏡となることで結局同じことができるのだとわかりました。

 

つまり、多くの人とただ接しているということだけで、教えを言葉にして伝えなくても、教えを伝えているのと同じことができるのだということに気づきました。

 

それもまた他者に貢献する一つの生き方なのかもしれないと思いました。

 

また、僕はその過去(過去世も含め)の経験から、霊的探究、悟りを目指した修行(苦行)というものに飽きてしまったというか、普段の何気ない生活の中に本当の人生の喜びが溢れていることを感じられるようになりました。

 

例えば、最愛の人と愛し合ったり、家庭を持って子育てをする、カメラを持って身近な草花を撮影する、旅行に行く、ご飯を美味しいと思いながら食べる、お笑い番組を見て大笑いするなど、普段当たり前のことのように思えることが、本当はすごくかけがえないもので、幸せを沢山感じられるということにようやく気付き始めました。

 

そういったもので人生を彩ることの方が楽しいのかもしれないと思えるようになったのです。

 

また、自分の創造性を発揮すること(絵を描く、物語や絵本を創作する、裁縫をする、料理をするなど)で、自分も楽しみながらプラス他者のためにもなるということで人生を十分豊かにし謳歌できると感じています。

 

人との関わり合いの中でしか得られない人生の喜びがあるように思いました。

 

霊的な探求や、悟りを目指すための修行に人生を捧げることが悪いという訳ではないですが、僕はもうそれらを卒業して、もっと身近にある日常の中に幸せを沢山創造していきたいと思うようになりました。

 

特別な修行をしなければ悟りに至れないというのも実はエゴが仕掛ける罠だったりもします。実を言うと、何気ない日常のすべての行為が悟りへと通じる道なのです。

 

例えば、お茶を一杯丁寧に入れる、床をきれいに拭き掃除をする、洋服にアイロンをかけるなど、そんな当たり前のことが実は悟りへと繋がっています。

 

一般的には疑問に思われるかもしれませんが、未来への期待も、過去に対する後悔もなく「ただ今を生きる」、そして「何事にもジャッジメントを下さない」それができた時が悟りなのだと僕は思います。


ジャッジメントを下さない」とは、この世にある善悪、損得、正誤などあらゆる形の二面性、対極にあるものを一つに統合し、常に中立、ニュートラル、ゼロポイント、中道、中庸であるという道を進むこと、そのような精神状態を心がけ維持するということです。そのために瞑想はとても役に立ちます。

 

また、その人が中道からどの程度ズレているのかということは、自然と日々目の前に起こる出来事や人との出会いによって私たちは教えられていきます。つまり、何か時別な修行をしなくても修行と同じことを日々行っているということなのです。

  

そして、自分と自分の身の周りの人たちに愛を与えながら幸せに生きる、
もう人生それだけで十分だったりします。

 

僕の経験上、やるのは個人の自由ですが、何か特別な修行をして超能力や霊能力を開発したり鍛えたり、使えるようになることが悟りではないし、それが人生の本質ではないのだと思います。

 

たとえ、それを使って何をするのかといった明確な目的があったとしても、それを使わないと自分や人を幸せにできないかというとそうでもありません。

 

普段から笑顔で他者と接する、周りを明るくするような話をする、優しさを表すということで十分立派に他者に貢献できます。超能力や霊能力があってもなくても自分や人を幸せにする道は沢山あるのです。

 

そういう能力があれば便利だな~とか、カッコいいな~と思うこともあるかもしれませんが、私が見てきた限り、そういう能力の持ち主の人生はいろんな意味で苦労や悲しみが多かったりもするのです。

 

もっといえば、実は全員が本来そういった能力を潜在的に持っていて、それがどの程度表に現れているのかというパーセンテージの違いしかないのだと思っています。

 

それを持っているから偉いとか、すごいとか、生きやすい、霊格が高い、人格者だとかという訳でもありません。単にそれはその人の持つ個性、才能の一つでしかありません。

 

皆さんには、私のそういった過去の人生をいろんな意味で反面教師としていただければと思っています。

 

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